チーム内で目指す方向性が違った場合、どのように落としどころをさぐるのか?
演奏の目的地を、個人の自己実現から、チームの共通目標にズラす、という話でした。

チームの共通目標の例えとして、「お客様のキモチ」という例を出したわけですが。

この「お客様のキモチ」というのが、なかなか鬼門で。


だってもう、「お客様のキモチ」って、絶対正義じゃないですか。


不可侵な「お客様のキモチ」
「お客様のキモチ」を正義にすると、議論を封じちゃうんです。
それに反対すると「お客様の気持ちはどうでもいい」というリクツになるから、反論できない構造になってる。

でも、反論できない構造のリクツって、人間に考えることを放棄させちゃうんだよね。
このドツボにはまってるチームが、けっこう多いわけ!


で、結局「お客様のために」自分の気持ちを封じる、「お客様のためにテンポを機械的に統一する」、その方法に対して違和感を覚えても、「お客さんはゼッタイ正義!」は覆せないから、そこで固着化しちゃう。固着化したテンポは、その段階で既に死んでるから、早かろうが遅かろうが「死んだテンポ」にしかならない。
つまり、結果的に「お客様のためにもなってない」。


ここからはヨウスケ理論なんだけど。
お客様が望むのは、統一ではなく共感なんじゃないか。
演奏者同士の共感が、観客にとっての「見るべき価値」の本質。
テンポやフリが揃ってる、ってのは、演奏者同士の共感の「結果」、そろってるんであって、
お客様はテンポやフリが揃ってることで、演奏者の共感度を無意識に測ってる。
だからテンポやフリをそろえるのは、価値の本質じゃなくて、表面に現れるカタチなんだと思います。


じゃ、本質である「演奏者同士の共感」をどうつくるか? という話になります。


「共感そのものが演奏の目的」
太鼓とか、集団での音楽や芸能活動の本質って、本当はここなんじゃないかなあ。
1人で歌うんならいいけど、誰かに伴奏をつけてもらうとか、演奏者が2人以上になった段階で、最大の目的地は「共感」にならざるを得ないんじゃないか。

共感を目的地にする、ってのは例えば、うーん。
手遊びで「セッセッセーノヨイヨイヨイ、アルプス一万尺…」って手遊びを子どもがやるよね。
あれが「共感」を目的地にする、ってことだよなーと思うわけです。
アルプス一万尺を上手になるために、いきなりメトロノームは持ってこないっしょ、やっぱり。
相手の目を見るとか、相手がついてこれるテンポを絶妙にはかるとか、「せーの」ってリズム感を合わせるとか。そっちがメインだよね。
それが囃子や音楽で、テンポ以前の「共感」をつくる土台になる。
まず「共感」ありきで、その土台の上に「技術的正確さ」とかが積みあがっていく。(メトロノームの出番はこの段階)


いっしょに演奏する仲間と、一緒に気持ちよくなるにはどうしたらいいの?
これを突き詰めることによって、結果的に阿吽の呼吸やピッタリ「気持ちの」揃った動きやテンポが生まれる。

これはとても難しいことです。
でも、やろうと思えばできることです。
やっている実践例が膨大にある。どこに?
祭りの現場です。

正直、祭りの現場って粗いところもいっぱいある。
でも、録音すると音がバラついてる、とか、人によってスピード感がちょっと違うとか、そういう表面的な粗さを超えて、一致団結した芯の太さというか、力強さがある。
単色のプラスチックでつくった直線的な工業製品みたいな均質さ、そういうアラの無い美しさは出せないかもしれない。でもそうじゃないゴリっとしたパワー、「一人ひとり個性的でキャラ立ちしてるんだけど、すっげ一体感あるよね!」というのが、目指すべき姿なんじゃないか。

その知恵を伝統文化、民族文化から学びましょうよ! ということを田楽座は訴えてるのかな。


しばらくテンポにまつわる話を続けてきました。
最後はテンポの話からちょっとズレちゃったような気もしますが。
これ以上続けると着地点を見失いそうなんで、いったん「速いか遅いか」トークをこれで締めたいと思います。具体的なテクニックの話とか、テンポの話も無限に話題はあるんだけど、ぶっちゃけ言語で伝えられることにも限界あるなー、って感じてきたので。


#テンポ #音楽 #和太鼓 #お囃子 #祭り #伝統芸能  #田楽座
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次回は、日本史とか世界史とかの「歴史」について、かなり趣味的に書きなぐろうと思います。

8月19日(水)13時アップ予定!